インターネットをさがして ─映画『渚の鉄槌』に寄せて─

インターネットが、いままで出会ったことのない知らない誰かと出会うことができる道具なのだとしたら、映画『渚の鉄槌』はまぎれもなくインターネットである。いつか見たカンフー映画を再現しながら、あきらかに日本の風景のなかで、あきらかに日本の若者たちが、ひとつの車で旅をする。その旅は、ただの親しい友達との旅行なのかもしれないし、どうすれば映画を撮ることかできるのかを試みる旅なのかもしれないけど、僕たちはこの映画を観ることによって、この(京都ナンバーの)車に5人目として乗り込んで、揺れる手持ちのカメラの目線を通して、見知らぬ楽しそうな若者たちと、いっしょに青春を送ることができるのだ。

僕が働いている会社の同僚の、この映画を監督した石飛くんの話によると、撮影するときには適当にカンフー映画っぽい言葉をしゃべって、あとから字幕をつけることによって物語を構成していったという。このプロセスを聞いたとき、衝撃を受けた。それってつまり、撮影された映像から、石飛くんが考える「映画」を見つける作業だったのではないだろうか。石飛くんは映像を編集するプロセスで培った「映画」を見つけるまなざしで、同じ会社で働いていたというのだろうか。なんと恐ろしいことなんだろう。隣に座る人が、自分と変わらない日常の風景を「映画」として観ていたなんて。

やがて、石飛くんがこの映像を編集したときと同じように、インターネットをすることは「インターネット」を見つけることなのかもしれないなぁ… と思った。高速で通信しあいながら、僕たちはいつも誰かと出会っている。そのことに、どうすれば気づくことができるのだろう。そして、そうやって、どうすれば「インターネット」を見つけることができるのかを試みる旅こそが、インターネットなのかもしれないと。